誰かに喜んでもらおうと努力してみて たまたま上手くいってしまって 思いのほか喜んでもらえると 歯痒くもあるが何とも嬉しい気分だ。そうしてまた、喜んでもらうため、自分の満足度を満たすため、さらに高度な次元で挑戦してみる。自分の力はどんどん上達していき、喜ばれ、夢中になれる。
しかしあるとき壁にぶつかり、この挑戦には失敗しそうな気がする・・・と思った時、ふと目を上げると周りの目は喜びではなく期待に変わっていた。もともと自分がやってみたくてやってきたことで、別に失敗したところで「まぁこんなものか」と思うだけだったはずなのに、いつのまにかまわりは勘違いを起こしている。正解を知っている人間だと思われている。
自分はただ自分の実力のちょっと上を目指して、自然の成り行きで挑戦して、成功するたびに小さな喜びを感じていただけなのに。ある日自分がそう見られていたことを知ってしまうと、それが大変なショックである。まったく予定外の窮地に追い込まれてしまう。「出来ないのが普通なのになんでがっかりされなくちゃいけないんだ!」と。
が、きっとそれは自分だけではない。
自分の尊敬する人物だって、手の届かない神がかり的な力を感じさせるその人だって、本人は全然凄いことではないと思いながら普通にやっているだけなのだ。彼にとってはきっと他人のやっていることに神がかり的な力を感じているに違いない。
だからこそ、そんな相手からそんな目で見られていることに気付くと、自分が今まで不本意にもハッタリをかまし続けてきてしまったとしか思えなくて、実力以上に存在感や発言力が付いている自分に驚き、とんでもないことになってしまったという気分に陥ってしまう。
と、ここまで書いてこれがスランプと言うものなのかな?と思ったりもしたが、今ではまわりに嫌われようとしている人の気持ちがなんとなくだが分かる。
ただ、分かるけど分かりたくはない。この存在感や発言力の大きさを知って、責任というものを初めて知れる。これを知って、それでも立ち向かって初めて、自分の尊敬する人達に並ぶ自信と安らぎが得られるんだ。「私なんかに期待するな!」とばかりに好意的に寄って来てくれる人達を拒絶していては、この壁の向こうに広がる大きな道には抜けられやしない。